昭和39年12月11日 夜の御理解
初代の安武先生の、御理解力というのは、定評があったんですが、お伝記なんか読まして頂きよりますと、私が入信の時には、親先生はこう教えられたとか、私はいつ、親先生からこういうふうにご理解を頂いたとかっていう、その、もうホントに初心には初心、少し信心が進んだものには進んだものに対して、もう臨機応変に、自由自在な言葉を使って御理解をしておられますねぇ。
私、今日もチョット見せて頂いておりましたら、この方はもち、後、教師にお取立て頂かれた方らしいんですけれども、坐骨神経痛で難儀をしておる。初めて甘木の教会へお参りさせて頂いとる。そしたら、それは、難儀な事でしょうと。と言うて、あのその難儀であるという事を、いっぺん同情されましてねぇ。これは難儀な事でしょうと。けれども、こういうことを申します。
たこに骨なし、なまこに目なしと。私はそこだけ読まして頂いても、次の御理解は自分で感じたんですねぇ。すばらしいなぁとも、勿論、そのことは神様にお知らせ頂かれたことに違いないと思うんですね。そういう時に、そげな、言葉が出てくるはずが無いですもん。出なかったら。坐骨神経痛で参っておるという信者に対してですよねぇ。それはお困りでしょうと。けれども、申しましょうが、世の、世間では。ね。
たこに骨なし、なまこに目なしと申しましょうが。皆さん分かられるでしょうか。どういうことを、教えようとしておられる。ねぇ。この辺が信心です。悟りです、いわば。ね。おそらく、なまこに眼病はないでしょうとおっしゃった。たこに坐骨神経通はないでしょうて。素晴らしいでしょう。ね。たこには、骨がないのですから、坐骨神経通があるはずがないですもんねぇ。
なまこには目がないから、なまこには眼病はないでしょうと仰った。まそれからの御理解が、甘木流なんですね。私ならそこから、私そこをこうと解いただろう、甘木の先生はそこから、懇々と天地の御恩徳を解いておられるんですね。ですからねぇ、そのうはぁそのことで、はぁなるほどそうだなぁ、その自分の体のようであって、自分の体ではないんだと悟らせられたわけです。
だから自分の体じゃないとわかったときですねぇ、帰りにはもう足が立って帰っておられます。ですから、例えばならその人がですねぇ、その今日安武先生が実感しておられるところの天地のご恩徳やら、自分の体っていうようなものは、実はないんだと。自分のものはないんだという、悟られたほどしのことがです、こちらに分かっておるはずがないのだけども、もうそこは、甘木の安武先生のお徳だったと思うんですね。
帰りに足が立って帰られたというのですから。これは椛目の場合だってその例を、そういう例はいくらでもあるわけですけも。椛目の場合はそこんところが、ちょっと違うですねぇ。椛目の場合なら、そこをどういうふうに説くと思うですか。例えば私がそういう、私も、そういう、例えば御神願なら御神願を頂いたら、おそらく、安、安武先生が仰ったその、一口はそういうふうに言うだろうと思うですねぇ。
神はわが本体の親ぞと、信心は親に孝行するも同じことぞよと。神はわが本体の親信心は、親に孝行するも同じこと。教祖の神様はまそういうふうに説いておられす。ね。ですからそのう子供が親に、例えば孝を尽すような心の状態を持って、神様へ奉仕していく。神様へ尽していくと。その尽すというそのことが実を言うたら真心だということ。ね。神はわが本体の親、信心は親に孝行するも同じことと仰るから。
親孝行の情もって、神様へこれば(もらわんならんから?)こうする、というなものではなくてです。というふうにまぁ教祖は説いておられますですねぇ。私が先ほど古賀先生と桜井先生に、そういう意味のこと話したんですけれども、何の事かからだったでしようかねぇ。とにかく神様が私共の心を占領しておいでられるとういう言葉を使ってました。ね、そして最後にはもう全部の心も身も、神様が占領してしまわれる。
占領された時にもう私は私じゃなくって、もう神様であり言わば、大坪であ、大坪であり神様であり、神様であり大坪である、例えば言う様な事にまでなって来る訳ね。私が思いよることは、神様が思いござることとおんなしことだと言う様な事にまでなってくるんです。そこを私そん時の、ま一つの例を持ってからお話したんですけどもね。大変難しいことですけれどもね。
なる程それが分かってしまわなくても、そんなもんだと分かったら、おかげ頂いたんですね。同時にそれから先は、なんと申しますかね、そのお取次ぎをされた先生の、ま徳だと思うんですけれども、信心が自分のものになるとこういうこと。ね。一切が天地のご恩徳であり、天地の恵みであると。ご恩恵に浴するものであるということがホントに分からせて頂く時に、あたくし共の周囲一切が、神様に御礼を申しあげることばっかりだということになるでしょうねぇ。
だいたい神様っていう方は、私はいつも言うんですけども、あのう無色透明のガラスのようなものだと。あるやらないやら分からないんだと。ね。けども私達の場合なんか、まだ人のスリガラスぐらいなもんじゃなかろうか。そこは仏教の言葉では色即是空といっておられます。赤もなければ青もない。全然色というものはないのだと空のものだと。ですからそういう素晴らしい、例えば境地が確かにあるんだけれども。
ならそういう素晴らしい境地を目指すというと大変難しいですけれどもですねぇ。そこの過程であるところの信心。たこに骨なし、なまこに目なしと。ね。そこんところがちょっと分からんけれども、なまこに眼病はないでしょうと。おそらく、たこには坐骨神経痛はないでしょうなといって話された。はぁほんにそうじゃ。ねぇ。骨がないから、坐骨神経痛は起こらないのだ、もうないのだと。
それをならこの体ごとがです身も心も実はないのだと。神様の御物だとこう言う様なですねぇ、そのそう言う様なものをひょこっとこう分からせられた。ねぇ。ちょこっとそこが解っただけで、はぁそうだなぁと合点が言った所に、もう次のおかげになっておると。おかげは無尽蔵だおかげは限りないのだと。必要なものは必要に応じて頂けるのだと。先程でした母が今度御本部から帰って来る時、私が小走りして帰って来てからもうとにかく元気はつらつとして帰って来てからというて、大変それを喜んでおる。
みんなはそして喜んでおるけれども、じっす本人の私はです足がいわば、両方から支えられて帰ってくるときであっても、あし小走りで帰ってくるときであっても、おんなじだということ。ね、神様の御都合なのだから。それでです神様の御都合だと言うていながら、はぁきついとか痛いとか、あぁ難儀なことだというて不自由しとれば、難儀を感じるでしょうけど、私は難儀を感じないでしょうが。
例えばなら私が歩いたりね。足をとってくれる人がある手をとってくれる人がある。ねぇ。さァ食べさしてくれる人があるという、ですからもう私は例えば、小足では走っておろうが、言わばこう支えられて帰ってこおが、私にとってはどっちも有り難いんだということになる。これなんかも段々ですねぇ、いよいよそのう、たこに骨なしなまこに目なしということが、ホントに分かっていきよる証拠なのです。ね。
そういう私の状態のな、状態そういう心の状態の中にです、私の上に私が不自由のない、一切が許されておるでしょう。お金の不自由することのなし、食べることに不自由することのなし、着るもの飲むもの一切に私が不自由をしないという。ねぇ。そこでなるほどおかげというものは無尽蔵なんだけれども、お互いがならその無尽蔵であるおかげにまだ触れていないのだということ。
ただ断片的に、お繰り合わせ頂いて、お願いしておかげを頂いて、広大なおかげを頂いた。又次には、また願わんならんというような、信心のおかげであるということ。健康のことだけではありません。一切がそうなんです。ですから、例え確かにこの天地の中にはです、私共の幸せにならせて頂く、一切のものが用意されておる。無尽蔵に、埋蔵されておると、言うならば。ね。
その掘り出す所の言わば術って言うか力と言うか。ね。与えられる為の受け物というものを、作る事が大事だと言う事になるでしょう。いわば沢山お金が必要だけれども、お金が与えられてないとこうする。健康がホント先程古賀先生が言っていますもん。ホントに自分は時々真から思う事がありますと。もう健康ならここんとこはこう修行さして貰うのにっと思う事があるけれども、不健康ならそれが出来ないと。
なら健康のおかげを頂いたらええじゃないかと。ところが受ける力がないと。なる程この体は、神様は、御物であるということなんかは、理屈の上で分かっておるけれども、それがまだホントに、それがそうだとこう。たとえば、甘木の親先生がお説きになって、その方に、その御理解なさったときに、この方が受けたような実感をまだ受けてないだということ。ほんにそうだなぁと。
たこに坐骨神経痛はなかろうとこう思われる。たこに骨がないから坐骨神経痛はないと、こう悟られるとこにですたい、ね、取り次ぎの者の、言わば無尽蔵のおかげを頂いておられる先生自信が取り次がれる。また取り次がれる者もそこん所が、はぁそうだなぁと、こう思うところも、おかげがこう交流しておるんですね。ま今日のご理解は、もう大変その、言うなら難しい、ね。
色即じぇ是空なんていうその難しい信心で、開かして頂けれるそういう最高の境地。ね。私どもは一文とてない。ね。金だって物だって私共は一つもない。そういう考え方思い方ができるようにならせて頂いたらです、ね。神様は無尽蔵のおかげを下さるようになったと。まところがホントに厳密に言うてから、自分のものではないという程にその無欲たんたんな、いわゆる無色透明なような自分であるかというと。
いや時々私が感ずる事は、いいや私はまぁだ無色透明じゃない。あのうに乳色状態のすりガラス程度のものであろうとこう自分で思う。けれども自分のものではない。ね。自分のものではないのに、自分が是にいろんな感情を挟んでおるという事にです、お詫びをさせて頂いたり、ね。そこに元気な心を出させて頂いて、それを例えばすきっと放していったり、そういう努力に神様はもうすでに、それが無色透明のおかげが頂けてるかの様にしてから、その無尽蔵のおかげを下さっておると言う様な事ですねぇ。
だからその辺、信心のけいこというのは実の微妙であり、またこのくらい信心けいこ、この信心のけいこほど、有り難いというかねぇ。ものはない。先ほど桜井先生が、それこそ長年の信心を頂いておる間にです、ねぇ、こう言う様な信心の稽古の為道というもの、ぜんぜん今まで知らなかったと言うておられます。例えば難儀が、難儀なことが起こってまいりましたらです。
その難儀を難儀と、問題を問題としてから、さぁどうしょうかぁといって、それよりも眼がくら、くらんでしまっておるけれども、最近の私はおかげを頂いて、これからどのような問題でも起こってくるでしょうと。けれどもここのところに楽しみがある。その問題を神愛と分からせてもらえる。そして、神様がどういう神愛の、いわば表現を、この問題において私に下さるだろうかと思うたら、それが有り難い。
そういう信心の稽古の、言わば(勉強?)の為道というものを、体得させて頂いたということが有り難い、とこういっておられる。ここに限りなき信心の稽古ができて行く所にですたい、成程そく色即是空であり、ね、たこに骨なしなまこに目なしと。成程なまこに眼病はない。自分の目の様であって、自分のものではないと言う所に、もうそこにいえ、眼病が癒えておると言う様なです、おかげが頂けておると言う事です。
それをならなるほど分かっても、それを自分のものにしていくと言う事が、只今申しますように、勉強の為道というものが分からせて頂いて、ねぇ。恐らく私がそのあのう、安武先生のところの、そう言う様なお知らせを頂いて、そういうお取りさせて頂くときに、私はそうやっぱりそう言うただろうと。けれども後の御理解が違う。恐らく私し私の御理解は、私は神愛をもとにして説いたに違いないということなんです。ね。
もう一つ皆さんそういうおかげの頂けれる、もうおかげを絶対のもののとしてです、ね。だからこちらの状態さえが、神様の機感に状態になる。言うならば、神様が私というものを占領してしまわれるよ所までですこちらがばかの様に素直にです、なって行く以外にはないと言う事になりますでしょう。ね。そう言う様な難しいもん、問題そういわば境地を言うならそういう素晴らしい境地を目指してからでもですたい。
お互いが、私がいつも申します、私は金光大神を目指させて頂くと。例えば、言うならばです。そういう素晴らしい境地を目指す、それもいわばある意味で、自信を持ってそれに近づいていけると、この勉強方法覚えてさえいれば、この勉強さえ続けていけば、この精進さえしていけば、おかげを頂けると言う様なこの有り難い、またそれがいうあそうになっていきよるというか。おかげを頂いていきつつあるところの体験というものを頂き頂き、信心を進めていくのですからねぇ。有り難いことでしょ。
どうでも一つそういう所をですねぇ成程そうだなぁと。これはまぁ言うなら安武先生の受売りの様な物ですけれども、ね。今日でも私自身それを頂いたり読まして頂いた時に、もうすでに、私のものになったという気がした。なるほどそうだと。たこに骨なしなまこに目なし。なるほどたこに神経、えいえたこにね、坐骨神、神経痛はないと。なるほどなまこに眼病はない。なるほどそうだなぁと、こう思えれるだけでも、今晩の御理解は有り難いと思うんですねぇ。
(終わり)